次男精一は17歳で2代目忠兵衛を襲名しました。
伊藤本店への入店し「兵站部」へ配属。商品の荷造り、出荷、輸送など、店務の第一歩から修行を重ねました。
明治37(1904)年にはじまった日露戦争の前後、日本の綿糸需要は急激に増大、生産も急激に増えました。
伊藤本店は既に明治30(1897)年ごろから対韓貿易を開始していましたが37(1904)年には本店内に輸出部を設け39(1906)年に上海へ常駐員を、翌40(1907)京城に出張所を置くなど海外取引を拡大していきました。
明治41(1908)年 伊藤家事業の統一をはかるため、本家、分家でおこなっていた4店1工場の事業を合同でおこなうことを決意。伊藤忠兵衛本部を設置し、自らが代表となりました。
本部創設を記念し、同年、関西の糸商として初めて東京に支店を開設しました。
また、同時に伊藤本店の輸出部が伊藤輸出店として独立。
新設された輸出店は上海に続き漢口に出張所を開設、京城出張所に変わり現地資本と合弁で「共益社」を設立、さらにマニラにも開設しました。
明治42(1909)年からは1年半にわたり英米の視察と留学の為にアメリカ経由イギリスに渡りました。
イギリス留学中、外国の商館を通さず直接イギリスと商売をすれば中間利潤がカットされ日本の国益、利潤に繋がることに気付きビジネスに取り入れたり、イギリスの低金利を利用した無為替輸入の断行するなど、今日の総合商社の原点となる取引形態を見出すなど商売人といての才覚を身につけて帰国しました。
明治末期から大正初期にかけ、日本を取り巻く世界情勢は刻一刻と変化していく中、第一時世界大戦が日本にもたらす影響を冷静分析。伊藤忠の組織を固め強化するために大正3(1914)年伊藤忠合名会社として再発足しました。
大戦後の日本は未曽有の大戦景気につつまれ、綿業界も活況を呈しました。伊藤忠合名会社の糸店は国内取引、貿易(輸出)ともに実績を伸ばし、総合的な綿糸問屋としての体性を整えていきました。
しかし、今までの綿糸布中心から取扱いを多角的に拡大する積極方針を打ち出し、アメリカ進出を決意。大正7(1918)年ニューヨーク出張所を開設しました。フィリピン向けの綿糸、日本向けに鉄・機械類を輸出、上海支店を中心とした日中間の繊維以外の取引を開始しました。
同年、合名会社を分割し伊藤忠商事株式会社が創立されました。大正8(1919)年にはロンドンに出張所を開設し、鉄鋼、機械、重化学工業品の取り扱いも拡大していきました。
ところが大正9(1920)年、株価が大暴落し、これをきっかけに経済界は大パニックに突入しました。このパニックは伊藤忠を直撃し、莫大の債務を負うことになりました。危機的状況を打開する為、多角化していた事業を綿糸布に戻し、海外店の整理、人員整理などをおこない、危機克服への万全の構えとして大正9(1920)年貿易部門を分離、大同貿易を設立。その後、満州事変、関東大震災、金融恐慌など厳しい情勢の経済界に未を置きながら、危機の管理と決断を遂行していきました。。
昭和に入り日本の婦人服飾は和装から洋装への変革期を迎えました。大正13(1924)年より伊藤忠は加工綿布の取扱いをおこなっていましたが、年々増加しやがて主力輸出商品となっていました。
昭和4(1929)年には呉羽紡績を設立。日本の繊維産業の発展と軸を一つにして伊藤忠の綿、人絹、スフ、毛などの繊維全般にわたる原糸、製品の取扱いは年々増大し繊維総合商社としての基礎を確立していきました 。
この時期海外での活躍も目覚しく、上海、満州、朝鮮地区に加え、カルカッタ、スマラン、バンコク、ボンベイ、ニューヨークなど各地に出張所、事務所を設け、中南米、アフリカ、オーストラリアの各地に駐在員を派遣するなどネットワークを国際化していきました。
昭和10年代の日本は完全な戦時体制下にあり、伊藤忠は繊維総合商社としての機能は停止。
昭和16(1941)年丸紅商店、岸本商店の3社合併、三興株式会社として発足、2代忠兵衛は会長に就任。昭和19(1944)年三興株式会社、呉羽紡績、大同貿易合併、大建産業を発足し、社長に就任しました。
2代目忠兵衛は、初代忠兵衛の起こした商売を近江商人の精神とともに引継ぎ、海外で養った国際性と合理主義で経営革新を進め総合商社の企業形態の基盤を整えました。昭和48(1973)年逝去。 |