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伊藤忠兵衛について
伊藤忠グループ各社沿革































  伊藤忠兵衛について
 
初代忠兵衛

 初代伊藤忠兵衛は、天保13(1842)、滋賀県豊郷村八目に、五代伊藤長兵衛の次男として生まれました。豊郷町(現)は、琵琶湖の東(湖東)に位置し中仙道沿いに開けた町で、この地域出身の近江商人は湖東商人とも言われています。
幼少のころから家業を手伝っていた忠兵衛は11歳のとき、兄万次郎に従って約15キロ離れた五僧、保月村(現犬上郡多賀町)に行商にでかけました。これが自ら商品を売りさばいた初めての経験でした。
忠兵衛が行商を始めた1853年には、アメリカからペリー艦隊が浦賀に、ロシアからプチャーチン使節団が長崎に来航、日本は開国に向かって大きく動き始めていました。安政5(1858)年、忠兵衛15歳のとき、麻布(まふ)の持ち下り業を始めました。この年を伊藤忠商事創業の年としています。安政6(1859)年には長崎まで足を伸ばし、そこで見た外国貿易の活況に刺激を受けたことが、いち早く貿易業に進出するきっかけとなりました。安政8(1861)年には呉服・太物類の九州持ち下りを業とする近江商人の同業組合栄九講に参加。後に代表をつとめることになります。

 当時、京都に進出することが主流だった中、一歩先んじて大阪に根をおろし明治5年(1872)、大阪本町に呉服太物商「紅忠」を開店します。
同時に近代的な経営方針を打ち出し、中でも封建制の残る明治時代において店の利益を「本家納め」「店積み立て」「店員配当」に3つに均等わける‘利益三分主義’を実行し、社内会議制を設け、若い店員にも自由に発言を求めた忠兵衛は進取の気性の持ち主で、特に自由と合理性を好んだといわれています。
店名を紅忠から伊藤本店とし、京都に伊藤京店を開店。1885年には、外海鉄次郎と組み海外との貿易を行う「伊藤外海組」を組織し、雑貨類の直接貿易に乗り出すなど事業を確実に拡大していきました。

 

 熱心な仏教徒あった忠兵衛の精神は座右の銘‘商売は菩薩の業、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうものなり、利真於勤(利は勤むるに於いて真なり・・商人の手にする利益は商人本来の勤めを果した結果として手にするものでなければならず、そうした利益こそ真の利益である)’という言葉にあらわれています。

勤勉と倹約に徹す一方で毎月1・6のつく日は社員ともにスキヤキの会を開いたり、定期的に芝居や相撲を観に行くなど懇親の機会を設けていました。人材の育成にも力を注ぎ、店員を教育する際には‘真の自由があるところに繁栄がある’という信念をもっていました。

積極・機敏・合理の経営で伊藤本店・伊藤京店・伊藤西店・伊藤糸店を開店し事業を軌道にのせ豊郷村(現 豊郷町)の村長をつとめた初代忠兵衛は、明治36(1903)年逝去。

 
ことば 持ち下り業
商品携帯出張卸販売のこと。他の国々に得意場(商圏)を持ち、定期的に回って商売する事業形態。近江商人は、郷里や上方の産物を地方へ持ち下り、地方の産物を仕入れて上方で売りさばくという方法をとりました。忠兵衛は見本帳を持って注文を取り、その商品を 得意先のある宿屋に飛脚を用いて運送し、その宿で商品の販売をしていました。
 
二代目忠兵衛について
 
二代目忠兵衛

 次男精一は17歳で2代目忠兵衛を襲名しました。
伊藤本店への入店し「兵站部」へ配属。商品の荷造り、出荷、輸送など、店務の第一歩から修行を重ねました。
明治37(1904)年にはじまった日露戦争の前後、日本の綿糸需要は急激に増大、生産も急激に増えました。
伊藤本店は既に明治30(1897)年ごろから対韓貿易を開始していましたが37(1904)年には本店内に輸出部を設け39(1906)年に上海へ常駐員を、翌40(1907)京城に出張所を置くなど海外取引を拡大していきました。
明治41(1908)年 伊藤家事業の統一をはかるため、本家、分家でおこなっていた4店1工場の事業を合同でおこなうことを決意。伊藤忠兵衛本部を設置し、自らが代表となりました。
本部創設を記念し、同年、関西の糸商として初めて東京に支店を開設しました。
また、同時に伊藤本店の輸出部が伊藤輸出店として独立。
新設された輸出店は上海に続き漢口に出張所を開設、京城出張所に変わり現地資本と合弁で「共益社」を設立、さらにマニラにも開設しました。

 明治42(1909)年からは1年半にわたり英米の視察と留学の為にアメリカ経由イギリスに渡りました。
イギリス留学中、外国の商館を通さず直接イギリスと商売をすれば中間利潤がカットされ日本の国益、利潤に繋がることに気付きビジネスに取り入れたり、イギリスの低金利を利用した無為替輸入の断行するなど、今日の総合商社の原点となる取引形態を見出すなど商売人といての才覚を身につけて帰国しました。

 明治末期から大正初期にかけ、日本を取り巻く世界情勢は刻一刻と変化していく中、第一時世界大戦が日本にもたらす影響を冷静分析。伊藤忠の組織を固め強化するために大正3(1914)年伊藤忠合名会社として再発足しました。

 大戦後の日本は未曽有の大戦景気につつまれ、綿業界も活況を呈しました。伊藤忠合名会社の糸店は国内取引、貿易(輸出)ともに実績を伸ばし、総合的な綿糸問屋としての体性を整えていきました。
しかし、今までの綿糸布中心から取扱いを多角的に拡大する積極方針を打ち出し、アメリカ進出を決意。大正7(1918)年ニューヨーク出張所を開設しました。フィリピン向けの綿糸、日本向けに鉄・機械類を輸出、上海支店を中心とした日中間の繊維以外の取引を開始しました。
同年、合名会社を分割し伊藤忠商事株式会社が創立されました。大正8(1919)年にはロンドンに出張所を開設し、鉄鋼、機械、重化学工業品の取り扱いも拡大していきました。

 ところが大正9(1920)年、株価が大暴落し、これをきっかけに経済界は大パニックに突入しました。このパニックは伊藤忠を直撃し、莫大の債務を負うことになりました。危機的状況を打開する為、多角化していた事業を綿糸布に戻し、海外店の整理、人員整理などをおこない、危機克服への万全の構えとして大正9(1920)年貿易部門を分離、大同貿易を設立。その後、満州事変、関東大震災、金融恐慌など厳しい情勢の経済界に未を置きながら、危機の管理と決断を遂行していきました。。

 昭和に入り日本の婦人服飾は和装から洋装への変革期を迎えました。大正13(1924)年より伊藤忠は加工綿布の取扱いをおこなっていましたが、年々増加しやがて主力輸出商品となっていました。
昭和4(1929)年には呉羽紡績を設立。日本の繊維産業の発展と軸を一つにして伊藤忠の綿、人絹、スフ、毛などの繊維全般にわたる原糸、製品の取扱いは年々増大し繊維総合商社としての基礎を確立していきました 。
この時期海外での活躍も目覚しく、上海、満州、朝鮮地区に加え、カルカッタ、スマラン、バンコク、ボンベイ、ニューヨークなど各地に出張所、事務所を設け、中南米、アフリカ、オーストラリアの各地に駐在員を派遣するなどネットワークを国際化していきました。

 昭和10年代の日本は完全な戦時体制下にあり、伊藤忠は繊維総合商社としての機能は停止。
昭和16(1941)年丸紅商店、岸本商店の3社合併、三興株式会社として発足、2代忠兵衛は会長に就任。昭和19(1944)年三興株式会社、呉羽紡績、大同貿易合併、大建産業を発足し、社長に就任しました。
2代目忠兵衛は、初代忠兵衛の起こした商売を近江商人の精神とともに引継ぎ、海外で養った国際性と合理主義で経営革新を進め総合商社の企業形態の基盤を整えました。昭和48(1973)年逝去。

 

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